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禅の習慣化で解決できること

日々皆さんは意識して行うことと、ほぼ無意識の状態で行っていることがあると思います。

まず、意識して行うこととは何でしょうか?
朝起きてから寝るまでにどのくらいあるでしょうか?
全てのものごとを意識して行っている。意思を持ち、身体を動かし、
仕事や生活をしている。そう考える人が殆どでしょう。

しかし、たまにこういったことはありませんか?

歯を磨いたり、風呂に入ったり、トイレにいったりと、意識はするけれど、
それに取り掛かったら、ほぼ意識しないで行なっている・・・
もちろん、虫歯状態だったり、どこかを怪我していたり、お腹を壊していたりするときは別です。
意識がそこに集中すると思います。でも何事もない時は、あまり考えなくても行為が成立する。

なぜか、こういった習慣的なことは、意識しないと始動しないけれど、
一旦動き出すと自動的に完結している・・・(ということが結構ある)
私は手足が勝手に動いている、といった無意識状態を「意識的に」感じる時が多々あります。
これは一体何なのかなあ、と。ちょっとややこしいですね。

では、そもそも無意識とは、また無意識状態とはどういうことなのでしょうか?
無意識は意識をしていないから「無意識」です。一番最たる状態を例えるなら、睡眠です。
特に睡眠時に見る夢は、選んでもいないストーリーを自動的に繰り広げる映画のスクリーンのようですね。
頼んでもいない映像を勝手に再生されている感覚だと思います。

ただ、その夢が上映されるためには、最初に寝ることを意識しなければならず、
映画館に入場せずして無意識的視聴は出来ません。
倒れる以外に、身体を横にする、寝床に就くということはできませんから。

ちなみに寝ている時に、無意識状態の感覚は認識しにくいですが、睡眠から目覚めたあと、
理由は分からないですが、現実の悩みや、身体の痛み(激痛は別)から解放されている
感覚が残っていることってないですか?
私は異常なのか、ほぼ毎日のように朝起きると、何らかのそう言った感覚が残っています。
また睡眠中に見た夢は、朝起きた瞬間から思い出しにくくなってしまうのですが、
結果的に、どこか心の均衡を維持したり、回復させている感覚がありますね。

イコールの話として、安直につなげるつもりではないのですが、
いわゆる坐禅、その他の禅の所作というのは、今述べたようなことと同じことが
言えるのではないかと感じています。
簡単に禅のことを言い切るつもりはなく、またそう捉えられたくないのですが、
要するにこういうことではないでしょうか?

禅はというものは、睡眠の行為のようなことではないかと。
始動時は意識下にあるものの、始まると無意識状態になる。
さらにその状態をどこか「意識」している。

睡眠のような人間の機能的な行為として、習慣的に行っていいこと、
ということではないでしょうか。
つまり、習慣の所作として括ってもよいと考えています。

「無意識的」に坐れたら、あなたはもう一般の人ではないかも知れませんので、
基本的にはまず、意識的に禅モードを始動します(坐ったり、作務をしたり)。
しかし、禅の所作に慣れてきら、極力行為を自動化(無意識)していくこと。
つまり坐禅や食事、また掃除などの作務の時に意識することを減らす(あれこれ考えない)。
無意識的な領域が拡大することを「意識的に」感じられればしめたものです。
その領域の中から、自分が自然に心のバランスをとり、癒されていくことを感じたいですね。

さらに応用が効けば、日常の自分の眼前に起こる現象、出来事にいちいちダイレクトに反応せずに、
少し違った感覚(無意識状態で眺めていることを「意識」している)を持てるようにしたいところです。

これは習慣化していかないと難しいと思っています。
無意識状態になれるだけでは、人間世界で理解されないでしょう。

こういったことを、特異能力の習得として語ったり、
いわゆるスピリチュアル化して霊的な次元として語ったりする人もいます。
しかし私は人間に本来的に備わっている機能として現象学的、
あるいは唯物論的に捉え、表現しようとしています。

つまるところ、禅はそのような人間存在の肯定的な見方、観点を説いているようにも思えてくるのです。

ルジュナ
中川